≪理美容の起源≫  (2009.11.4)

第18回は、理美容事業部 加賀美 敦子による
「理美容の起源」をお届けいたします。

◎日本の床屋さんの発祥について

◆床屋の発祥は鎌倉時代にまで遡ります。
亀山天皇に使えていた藤原基晴(もとはる)は宝刀を管理するのが仕事でした。
ところがある日、その大切な宝刀がなくなってしまったのです。
紛失の責任をとらされ、基晴は辞職となりました。
基晴と三男の采女之亮(うねめのすけ)は宝刀を探すために山口県の下関に下りました。
1274年のことです。

当時の下関は蒙古襲来の前線基地で武士がたくさん集まってきていたのです。
「武士の身の回りの世話をしていれば、いつかは宝刀に巡り合える」、そんな気持ちがあったのでしょうか、采女之亮は下関で髪結いをしていた新羅人から技術を学び、往来の武士を客として髪結い所を開いたのでした。

そして、そのお店の床の間には天皇と先祖を祭る祭壇があったのです。
それを見て下関の人々は「床の間のある店」と呼ぶようになり、それが転じて「床屋」というようになったのだそうです。

その後、無事に宝刀を見つけた采女之亮は鎌倉に移り住み、京都風の髪結い職人として幕府から重用され、代々その職を受け継いでいったことで床屋を広めていったのです。

◆徳川家4代将軍のころなると髪結い職人も増え続け、「江戸の一町に一ヵ所」と初めての規制となり現代の保健所の基となったようです。

江戸時代の男性はおしゃれで、「髪を切る、結う、ひげを剃ったりする」他に、眉を整え耳掃除までしていたらしく、床屋が社交場となっていました。
この頃から、床屋さんは修行年月のかかる最高の技術職になったのです。

◆一方、美容室の基もその頃始まります。
店を持つものは床屋で、女性髪結は女性の髪を優雅に仕上げるという評判で、遊郭や顧客の家を訪問していたというのが女性の職業の始まりであり、美容業の始まりともいえます。

◎サインポールはなぜ「赤」「青」「白」


◆12世紀のヨーロッパでは理容師が外科医を兼ねていました。
そのため、赤は動脈、青は静脈、白は包帯というのがよく聞く話です。
ところが、この話は正しくないのではという説もあるのです。
なぜなら「血管に動脈と静脈があると発見されたのは17世紀に入ってからのことだから」というのがその理由です。

◆では、なぜ「赤」「青」「白」?
中世のヨーロッパでは一定の血液を体から抜くことが一つの健康法とされていました。
「瀉血(しゃけつ)」といわれ静脈を体の何か所も傷つけて、「悪い血」を体の外に出すことにより病気がよくなると信じていました。体が温まると血も出やすい為、瀉血・ひげそり・散髪等全て浴場で行われ、理容師は血についての知識も身につけ、理容外科医となっていったようです。

この血抜きをする時に痛いので一本の棒につかまらせていました。
この棒(Barber’s pole)は血が目立たないようにするために赤く塗られ、治療後洗った包帯はこの棒に干していたことから、赤と白のサインポールの原型ができたようです。
その後、1745年に外科医と理容師の完全分離し、外科医は赤・白。
理容は青を加え、外科医と区別されるようになりました。

今回は理美容のトリビア的なお話をピックアップしてみましたが、私も調べてみていろいろ面白い話があるものだなと改めて理美容業界の歴史の古さに気づかされました。
名前も知らない先人たちの技が今に引き継がれ、今の理美容業界があるのですね。
現代の私たちも先人たちに恥じぬように頑張らなければ!

下関の亀山八幡宮には「床屋発祥の地」の記念碑が建っています。
私もまだお目にかかったことはないのですが、近くに寄られた際には訪れてみてはいかがでしょうか。

全国理容生活衛生同業組合連合会のホームページに、面白いこぼれ話がたくさん載っています。
是非ご覧ください。
https://www.riyo.or.jp/index.html
(理美容事業部 加賀美 敦子)

(次回予告:総務課 秘書 山田尚子による「企業機密の漏洩について」)